電車移動の際、ふと読み返した芥川龍之介の短編『羅生門』。国語の教科書以来の再読でしたが、改めて読んでみると、当時とはまた違った感情が湧き上がってきました。
本記事では、読了後に感じたことを「AIに作成してもらった問いかけ事項」をもとに、整理してみました。読んだことのある方には共感を、これから読む方には関心を持ってもらえたら嬉しいです。
下人は「ごく普通の人間」だったのでは?
物語の主人公である下人(げにん)について、僕は「ごく普通の人物」だと感じました。特別な力があるわけでも、大きな野望があるわけでもない。ただ、時代の変化や環境の悪化、都の衰退や職の喪失によって追い込まれていく、当たり前に生きていたはずの一人の人間です。
そんな下人が、倫理や正義の狭間で迷い、葛藤しながらも最後には「盗人になるしかない」と思い至る。それは決して特別な話ではなく、誰の中にも潜む「弱さ」や「揺らぎ」を突きつける鏡のように思えました。
善悪って、誰が決めるんだろう?
作中に登場する老婆が、死体の髪を抜くシーンがあります。現代であれば明確に「嫌悪」する行為です。でも、この物語の舞台では生きるための手段だったかもしれません。
彼女の行動は、決して褒められるものではないかもしれませんが、「生きるため」という一点において、一定の理解を示す余地がある気がしました。何を「悪」とするかは、時代や状況によって変わるもの。羅生門は、「善悪とは何か?」という問いを、鋭く、そして不穏な形で僕たちに投げかけてきます。
羅生門という「負の象徴」
舞台となる「羅生門」は、かつて栄えた都の象徴でありながら、いまは死体の捨て場となった場所。誰もが避けたがる、陰鬱で荒廃した空間です。その描写がとてもリアルで、読んでいると自分までどんよりした気持ちになってきます。
ただ、この「負の遺産」ともいえる羅生門が、人間の倫理や本性を試す場所として描かれていることが、とても印象的でした。
現代の社会と通じるもの
現代の日本には、羅生門のような場所は存在しないと思います。でも、過疎化が進み、人が離れていった地域、失われた商店街、誰も住まなくなった団地、そんな「かつての栄光の残り香」は、至るところにあると感じます。
また、世界に目を向けると、貧困や治安の悪化で「盗まないと生きられない」という地域も存在します。羅生門の世界観は、時代も文化も違えど、「生きるとは何か?」という問いを今なお僕たちに突きつけているように感じます。
自分だったらどうするか?
一番考えさせられたのは、この「もし自分だったら」という問いでした。もし自分が下人だったら、同じような行動を取ったでしょうか。追い詰められたとき、自分の中の倫理観はどこまで保てるのか。
たぶん僕は、あそこまで老婆に詰め寄ることはできないと思います。だけど、自分の命がかかっていたら。そう考えると、答えは簡単には出せませんでした。
まとめ 『羅生門』は現代に通じる「問いの文学」


芥川龍之介の『羅生門』は、たった十数ページの短編でありながら、善悪、生存、人間の弱さといった普遍的なテーマを鋭く描き出しています。今の日本では想像しづらいような極限状況の中で、それでも「人はどう生きるのか?」という問いが、この作品には詰まっています。
普段、本をあまり読まない方も、ぜひ一度読んでみてください。読後に心に残る「何か」がきっとあるはずです。ご興味のある方は、青空文庫などで無料で読めますし、Kindleにも収録されていますよ。